1枚の時刻表から。あの輝いていた頃の、いすみ鉄道を...
先日、実家の本棚から旅行メモが大量に見つかったことは既に書いた通り。
その中には乗車記念に、と、持ち帰った乗車券類やパンフなども含まれていた。
そして、その中には1枚のA4版の紙も入っており。

上部には「いすみ鉄道列車時刻表(平成24年3月28日改正)」の文字。
キハ52形の「臨時急行列車」が走り出して1年が経とうとしている時期のものである。
折ってポケットに入れて持ち歩いたのだろうか、紙はヨレヨレになっており。たぶん、記念にしたかった...のではなく、撮影に訪れたときに使ったものかと。
先日の脱線事故で運休している、いすみ鉄道。
旧国鉄(ごく短期間だけJR東日本)木原線が転換された第3セクター、その時点で廃線対象の「特定地方交通線」に入るくらいだった訳だが、その当時に比べても、アクアライン、圏央道の開業による自動車の優位性向上、沿線人口のさらなる減少、少子高齢化と沿線の高校生の減少など、路線を取り巻く環境は厳しくなっていく一方であるのは明らか。
<鉄>としては1日も早い復旧を願っているが、ネットを見ていても出てくる話は必ずしも好ましいものばかりではなく。もちろん、流言飛語の類いも多いだろうが...それにしても。
まぁ、そんな時期だからこそ、(ほとんどの写真が再掲だが)キハ52形の急行が走り出した当時の沿線をご紹介したい。
当時、あの名物社長さん(現在は、えちごトキめき鉄道を経て大井川鐵道社長)の宣伝効果もあって...もちろん、自分もその1人だが...訪れたファンも多かった。
ただ、まだ沿線にあの殺伐した雰囲気はなく、混雑もそこまでのものでもなく、サクラと菜の花の時期でも比較的、ノンビリ撮ることができていた。
紺色と黄褐色のツートンカラーで大多喜にやって来たキハ52 125号車は、朱色とクリームの「一般気動車色」に塗り替えられ。
まだ、塗装も美しかった頃の同線の様子をご紹介したい。…… ……
ブログでのアイコンにも使っている、この「試運転」のヘッドマーク。

【2011年4月8日9時36分】 いすみ鉄道・大多喜駅
前夜、「大多喜がどこなのか??」から必死に調べて。京成高速バスでオリブ前のバス停へ。外廻橋を渡って、あのセブンイレブン横の坂を上がれば...
大手門のところで、大糸線で撮ったキハ52 125号車との久々の再会。
ちょうど前面貫通扉が開かれ、まさに「試運転」のマークが掲出される、その瞬間に立ち会うことができたのだった。

【2011年4月8日13時10分】 いすみ鉄道・大多喜駅
昼から、大多喜駅奥の給油線のところにある扉が開放され。簡単な撮影会と、社長さんによる説明のようなものが行われ。
確か「試案」のような形で、キハの運行予定ダイヤみたいなものが配布されたような記憶。実際の急行のダイヤとは全然違うものだったような...
この日は、ダイヤ作成に必要なデータ収集のため、大多喜-国吉間を2往復ほど走らせていた...ということだった記憶。

【2011年4月8日14時35分】 いすみ鉄道・城見ヶ丘-上総中川
午後は「森宮」へ。
まだ、町長さんのところの社屋も垢抜けない感じだった頃である。いつの間にか、ガラス張りになっていて...
それはさておき、まだここは木が大きくなっておらず、踏切カブリツキで、こんなカットも撮ることができた。当時、現行の車輌は導入される前。富士重LE-Car Ⅱシリーズの「いすみ200'形」での運行だった。
この頃、水面下では、老朽化が進む開業時からの車輌の置換えをどうするか...億単位の投資をするか、あるいは、それに合わせて廃線にするか...という話が進められていたとも言われており。
車輌を大型化し、その分、新製両数を5両に絞る...ということで決着、後に、「キハ顔のトランシス車」を誕生させることになったわけで。

【2011年4月15日10時27分】 いすみ鉄道・大多喜-城見ヶ丘
木々の伸長...といえば、ここの国道(大多喜街道)の立体交差も。13年前は木も高くなく夷隅川鉄橋まで一望することができた。
そう、何かのカレーのパッケージみたいな写真も簡単に撮ることができたのである。菜の花の時期でもそこまで混雑することもなく...

【2011年4月15日12時18分】 いすみ鉄道・城見ヶ丘-上総中川
森宮のあたりは最初の頃、毎回のように訪れていた。
この当時は、踏切近くのお宅に鯉のぼりが。コレとキハを絡めようと意気揚々と訪れたら、キハのダイヤを見誤っていた...という。
いすみ路の<鯉のぼり鐵>は、この後、長らく“宿題”だった。首都圏色になってから、上総中川駅近くで撮ることができたのだが...
(いまも、X(旧twitter)のヘッダー部分に使っている)

【2011年4月24日11時23分】 いすみ鉄道・上総中川-国吉
ムーミンのキャラクターのステッカーを貼った200'形は当時の主力車。当たり前のように走っていたし、何度も撮った。
重連で来ることも少なくなく。
当時の<変態鉄>には珍しく、手前のサクラの花にピントを合わせて撮っている。

【2011年4月24日11時55分】 いすみ鉄道・上総中川駅
上総中川駅は、当時、いまよりも旧国鉄の雰囲気を残した静かな駅だった。旧仕様の駅名看板なども残っており、それも好きだったのだが...
ホームの先端から通過する急行列車(当時は、信号関係の確認のため、通過駅でもいったん停車していた)を撮ることも容易で。
床下までピカピカだった当時のキハ52 125号車、急行「そと房」のマーク付きで記録できたのは、当時としては“会心の1枚”だった。

【2011年5月2日11時53分】 いすみ鉄道・国吉-上総中川
なかなか上手に撮れなくて苦労したのは、コチラだったかも。
既に有名な地点ではあったが、踏切はまだまだ自然な感じで。後ろ側が舗装されたのは、このかなり後のことだったような気がする。
水鏡を切ってしまった上に、バックの空は中途半端な曇り空で...。
ここは、この後、“会心の1枚”に出会えるまで何度も何度も通ったのだった。
それにしても...
この時期、ほぼ毎週のように大多喜に通っていたようで。
…… ……
「わずか12年前」なのか、「はるか12年前」なのか、そこの感じ方は人それぞれ。
コロナ禍とその後の労働力不足は業種業界を問わず人手不足を巻き起こしており。それにしても、12年前のダイヤと今のものでは“隔世の感”である。

列車本数も(区間便も1本として)下り18本・上り17本、現行ダイヤと見比べると朝の時間帯と夕方の時間帯が削られている感じか。もはや、30番台の列車番号は使われておらず。
高校生の減少とも関係がありそう。
右の欄外に書かれているが、キハ52 125号車は「臨時急行」。この当時は、大多喜-大原間を午前午後に各1往復だった。注目はその号数。
「1号」「3号」の奇数が上り列車、「2号」「4号」の偶数が下り列車、<鉄>にとっては違和感だが、走る順番に番号を振るシンプルな仕組みだった。後に列車番号は急行らしい3桁番号(100D~105D)になり、朝の第100D列車が「快速」になって「急行1号」が大原始発の下りに変わるのは、キハ28 2346号車がやって来てから...だっただろうか。
「季節臨時列車(運転日注意)」の臨61D~62D列車というのがキハ52形の“間合い運用”。当時、この列車の運転があるかどうかは「社長ブログ」で確認するほか無く。
田園風景が広がり、撮影地も多い上総中野側へ入線するのは、不定期の、朝の1往復だけ。オリブ前の高速バス停までタクシーに迎えに来てもらって撮影地に向かっていた当時の自分だった。
ちなみに、当時の勝浦線高速バスは、浜松町始発、そして木更津を過ぎて高速を下り、久留里線の横田駅近くから上総鶴舞駅前を経て国道297号線を下っていた。
いまのフォーマットとは違って、上総中野駅(小湊鉄道線)、大原駅(外房線)の接続案内も書かれており。
朝6時台に五井ゆきがあったのもちょっと意外、それから、JR線は「特」のマークが付いた列車が多いのも今との違いだろうか。
1日も早く脱線事故の原因究明と然るべき安全対策を施して、復旧とともに、キハ52 125号車も再び動き出すことを願う次第。
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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その中には乗車記念に、と、持ち帰った乗車券類やパンフなども含まれていた。
そして、その中には1枚のA4版の紙も入っており。

上部には「いすみ鉄道列車時刻表(平成24年3月28日改正)」の文字。
キハ52形の「臨時急行列車」が走り出して1年が経とうとしている時期のものである。
折ってポケットに入れて持ち歩いたのだろうか、紙はヨレヨレになっており。たぶん、記念にしたかった...のではなく、撮影に訪れたときに使ったものかと。
先日の脱線事故で運休している、いすみ鉄道。
旧国鉄(ごく短期間だけJR東日本)木原線が転換された第3セクター、その時点で廃線対象の「特定地方交通線」に入るくらいだった訳だが、その当時に比べても、アクアライン、圏央道の開業による自動車の優位性向上、沿線人口のさらなる減少、少子高齢化と沿線の高校生の減少など、路線を取り巻く環境は厳しくなっていく一方であるのは明らか。
<鉄>としては1日も早い復旧を願っているが、ネットを見ていても出てくる話は必ずしも好ましいものばかりではなく。もちろん、流言飛語の類いも多いだろうが...それにしても。
まぁ、そんな時期だからこそ、(ほとんどの写真が再掲だが)キハ52形の急行が走り出した当時の沿線をご紹介したい。
当時、あの名物社長さん(現在は、えちごトキめき鉄道を経て大井川鐵道社長)の宣伝効果もあって...もちろん、自分もその1人だが...訪れたファンも多かった。
ただ、まだ沿線にあの殺伐した雰囲気はなく、混雑もそこまでのものでもなく、サクラと菜の花の時期でも比較的、ノンビリ撮ることができていた。
紺色と黄褐色のツートンカラーで大多喜にやって来たキハ52 125号車は、朱色とクリームの「一般気動車色」に塗り替えられ。
まだ、塗装も美しかった頃の同線の様子をご紹介したい。…… ……
ブログでのアイコンにも使っている、この「試運転」のヘッドマーク。
【2011年4月8日9時36分】 いすみ鉄道・大多喜駅
前夜、「大多喜がどこなのか??」から必死に調べて。京成高速バスでオリブ前のバス停へ。外廻橋を渡って、あのセブンイレブン横の坂を上がれば...
大手門のところで、大糸線で撮ったキハ52 125号車との久々の再会。
ちょうど前面貫通扉が開かれ、まさに「試運転」のマークが掲出される、その瞬間に立ち会うことができたのだった。
【2011年4月8日13時10分】 いすみ鉄道・大多喜駅
昼から、大多喜駅奥の給油線のところにある扉が開放され。簡単な撮影会と、社長さんによる説明のようなものが行われ。
確か「試案」のような形で、キハの運行予定ダイヤみたいなものが配布されたような記憶。実際の急行のダイヤとは全然違うものだったような...
この日は、ダイヤ作成に必要なデータ収集のため、大多喜-国吉間を2往復ほど走らせていた...ということだった記憶。
【2011年4月8日14時35分】 いすみ鉄道・城見ヶ丘-上総中川
午後は「森宮」へ。
まだ、町長さんのところの社屋も垢抜けない感じだった頃である。いつの間にか、ガラス張りになっていて...
それはさておき、まだここは木が大きくなっておらず、踏切カブリツキで、こんなカットも撮ることができた。当時、現行の車輌は導入される前。富士重LE-Car Ⅱシリーズの「いすみ200'形」での運行だった。
この頃、水面下では、老朽化が進む開業時からの車輌の置換えをどうするか...億単位の投資をするか、あるいは、それに合わせて廃線にするか...という話が進められていたとも言われており。
車輌を大型化し、その分、新製両数を5両に絞る...ということで決着、後に、「キハ顔のトランシス車」を誕生させることになったわけで。
【2011年4月15日10時27分】 いすみ鉄道・大多喜-城見ヶ丘
木々の伸長...といえば、ここの国道(大多喜街道)の立体交差も。13年前は木も高くなく夷隅川鉄橋まで一望することができた。
そう、何かのカレーのパッケージみたいな写真も簡単に撮ることができたのである。菜の花の時期でもそこまで混雑することもなく...
【2011年4月15日12時18分】 いすみ鉄道・城見ヶ丘-上総中川
森宮のあたりは最初の頃、毎回のように訪れていた。
この当時は、踏切近くのお宅に鯉のぼりが。コレとキハを絡めようと意気揚々と訪れたら、キハのダイヤを見誤っていた...という。
いすみ路の<鯉のぼり鐵>は、この後、長らく“宿題”だった。首都圏色になってから、上総中川駅近くで撮ることができたのだが...
(いまも、X(旧twitter)のヘッダー部分に使っている)
【2011年4月24日11時23分】 いすみ鉄道・上総中川-国吉
ムーミンのキャラクターのステッカーを貼った200'形は当時の主力車。当たり前のように走っていたし、何度も撮った。
重連で来ることも少なくなく。
当時の<変態鉄>には珍しく、手前のサクラの花にピントを合わせて撮っている。
【2011年4月24日11時55分】 いすみ鉄道・上総中川駅
上総中川駅は、当時、いまよりも旧国鉄の雰囲気を残した静かな駅だった。旧仕様の駅名看板なども残っており、それも好きだったのだが...
ホームの先端から通過する急行列車(当時は、信号関係の確認のため、通過駅でもいったん停車していた)を撮ることも容易で。
床下までピカピカだった当時のキハ52 125号車、急行「そと房」のマーク付きで記録できたのは、当時としては“会心の1枚”だった。
【2011年5月2日11時53分】 いすみ鉄道・国吉-上総中川
なかなか上手に撮れなくて苦労したのは、コチラだったかも。
既に有名な地点ではあったが、踏切はまだまだ自然な感じで。後ろ側が舗装されたのは、このかなり後のことだったような気がする。
水鏡を切ってしまった上に、バックの空は中途半端な曇り空で...。
ここは、この後、“会心の1枚”に出会えるまで何度も何度も通ったのだった。
それにしても...
この時期、ほぼ毎週のように大多喜に通っていたようで。
…… ……
「わずか12年前」なのか、「はるか12年前」なのか、そこの感じ方は人それぞれ。
コロナ禍とその後の労働力不足は業種業界を問わず人手不足を巻き起こしており。それにしても、12年前のダイヤと今のものでは“隔世の感”である。

列車本数も(区間便も1本として)下り18本・上り17本、現行ダイヤと見比べると朝の時間帯と夕方の時間帯が削られている感じか。もはや、30番台の列車番号は使われておらず。
高校生の減少とも関係がありそう。
右の欄外に書かれているが、キハ52 125号車は「臨時急行」。この当時は、大多喜-大原間を午前午後に各1往復だった。注目はその号数。
「1号」「3号」の奇数が上り列車、「2号」「4号」の偶数が下り列車、<鉄>にとっては違和感だが、走る順番に番号を振るシンプルな仕組みだった。後に列車番号は急行らしい3桁番号(100D~105D)になり、朝の第100D列車が「快速」になって「急行1号」が大原始発の下りに変わるのは、キハ28 2346号車がやって来てから...だっただろうか。
「季節臨時列車(運転日注意)」の臨61D~62D列車というのがキハ52形の“間合い運用”。当時、この列車の運転があるかどうかは「社長ブログ」で確認するほか無く。
田園風景が広がり、撮影地も多い上総中野側へ入線するのは、不定期の、朝の1往復だけ。オリブ前の高速バス停までタクシーに迎えに来てもらって撮影地に向かっていた当時の自分だった。
ちなみに、当時の勝浦線高速バスは、浜松町始発、そして木更津を過ぎて高速を下り、久留里線の横田駅近くから上総鶴舞駅前を経て国道297号線を下っていた。
いまのフォーマットとは違って、上総中野駅(小湊鉄道線)、大原駅(外房線)の接続案内も書かれており。
朝6時台に五井ゆきがあったのもちょっと意外、それから、JR線は「特」のマークが付いた列車が多いのも今との違いだろうか。
1日も早く脱線事故の原因究明と然るべき安全対策を施して、復旧とともに、キハ52 125号車も再び動き出すことを願う次第。
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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