28年前の春、忠節の交差点で ~ 思い出の名鉄岐阜線 ~
前ブログでも取り上げたが、<変態鉄>が初めて“一眼レフ”なるものを手にして走る電車にカメラを向けたのは、1991年、中学2年生の夏のことだった。父の単身赴任先の岐阜を訪れたとき、当時の岐阜の街を走っていた名鉄の路面電車。だから、名鉄岐阜市内線は<変態鉄>の“原点”ともいえる路線である。

【2010年6月25日10時44分】 岐阜県美濃市広岡町・旧名鉄美濃駅
古い城下町の狭い街路はクルマ社会で電車の存続を許さず。残念ながら2005年春に、岐阜市内線をはじめとした一連の「岐阜600V線」は全廃となる。
93年に高校生になった<変態ガキ鉄>、当時、まだ多く残っていた夜行列車を乗り継いで、全国20数都市に走っていた路面電車を全て撮る...という、考えれば無茶苦茶なことだったが、1年がかりで“制覇”した。量販店で買ったネガカラーで撮った酷い、ホントに酷い写真だが、いまとなっては貴重な記録となって。
残念ながら、撮り方もメチャクチャ、さらに、ネガの保管状態が酷く、変色が激しいが16年前に消えた、岐阜の路面電車の姿をご紹介したい。
幸い、簡単な記録が残っており、撮影日は、すべて1993年4月2日ということは確定できた。…… ……
1993年4月2日(金)晴れ
いまから、約10,300日前。定期検診で“やせすぎ”と指摘される高校生だった当時の<変態鉄>。
“大垣夜行”で豊橋へ豊鉄東田本線を撮ってから、新快速電車で岐阜に移動して...

【1993年4月2日】 名鉄岐阜市内線・西野町-早田(当時)
忠節橋を渡る電車の姿というのは、<変態鉄>にとって強く印象に残っているシーン。
当時は毎時2本程度、揖斐線直通急行が2両編成、他に10分くらいの間隔で普通の路面電車タイプの電車で新岐阜駅前-忠節の市内線区間の電車。だから、電車は意外と頻繁にやってきたし、モ570形などの市内線専用車を日中でも当たり前に見ることができた。
この写真に写る真紅の電車は、小ぶりな車体のモ550形。当時、名鉄と資本関係にあった北陸鉄道金沢市内線、その廃線に伴い岐阜に転入してきた車両...と知ったのは、もう少し、後のことだった。
丸っこい車体をもつ電車が多い印象の名鉄の電車の中で、ちょっと「印象の違う電車」という感じ。それと車体前後が絞り込まれた車体形状に、ちょっと“名鉄らしくない”と感じていた高校生当時の<変態鉄>だった。
この写真、忠節橋の北詰、当時の早田電停近くの歩道橋から南東向きにカメラを構えたもの。長良川の向こう岸が岐阜の中心街。目を凝らせば高島屋の看板が確認できる。

【1993年4月2日】 名鉄岐阜市内線・忠節-早田(当時)
そのモ550形の姿を記録したのは、忠節橋からもう少し北側に歩いたところ。忠節橋通りを北上してきた電車は、針路を西に変え専用軌道に入る。そこの交差点である。
「軌道敷内自動車通行可」の上に、電停にも安全島の設置が最後まで認められず、いわゆる“ノーガード電停”ばかり、安全性に問題があるのも岐阜の電車が消える原因の1つになった。そんな中、クルマに邪魔されずに車両写真を撮れる貴重な交差点がココだった。
同じポジションで振り返ると...

【1993年4月2日】 名鉄岐阜市内線・忠節-早田(当時)
モ770形も真紅の塗装で活躍していた。
この忠節駅周辺、<鉄>としてわかりやすく言えば、いまの福井鉄道福武線の赤十字前駅、あんな感じである。
90年代までの忠節駅、駅員さんも居て窓口で乗車券を買うと硬券だった。当時の硬券乗車券も実家の部屋の中を漁れば残っている筈だが...。
駅には揖斐線ローカルの発着ホーム、市内線の折返し用ホームと直通電車のホームがあったような記憶。そして、駅舎は名鉄系のスーパーが併設されており。
もちろん既に線路も撤去されており、あのスーパーも含めて忠節駅周囲も、あまり面影は残っていなかったような気がする。
ちなみに、モ770形の直通急行、正面の方向幕が「急行 岐阜駅前」であることにも注目。
当時、揖斐線直通急行と美濃町線は基本的に車掌さんが乗務して、市内線でも車内できっぷを買う方式だったと記憶している。
ちなみに、急行電車は市内線区間に入っても急行運転、確か、忠節から西野町、千手堂、徹明町、新岐阜駅前と1つおきに停車していた記憶。

【1993年4月2日】 名鉄岐阜市内線・早田-忠節(当時)
そして、全廃の日まで活躍したのが名鉄生え抜きのモ570形。車内灯は最後の最後まで白熱灯だった。
忠節で撮った後は、美濃町線に“転戦”したはず。

【1993年4月2日】 名鉄美濃町線・撮影地不詳
だんだん西に傾いていく陽射し、確か徹明町から梅林を経て競輪場前まで歩きながら。
当時は、新岐阜からの田神線経由が15分間隔、そして徹明町からの電車は30分間隔、続行運転になるのは変わらなかったが、折返し駅が日野橋だったのが末期との違い。
<変態ガキ鉄>にとっては30分という待ち時間は長すぎた。
途中、やってきた徹明町ゆきはモ600形。この電車も当時は単行でも車掌さんが乗っており。この電車、夏になると兎に角、暑かった。当時は冷房車が皆無だった美濃町線である。
この写真、背後に岐阜銀行の看板が写っている。それをヒントに地図で探したのだが、撮影場所を特定できなかった。

【1993年4月2日】 名鉄美濃町線・金園町9丁目電停付近(当時)(?)
当時の美濃町線の徹明町-日野橋系統、モ600形とともに活躍していたのが札幌からやってきたモ870形。好きな電車だったが、札幌らしい窓の大きいデザインは、盆地性気候で夏の酷暑・岐阜の街には不向きだった。
それに、この電車は当時600 V専用車で。末期には複電圧改造されて新岐阜にも乗り入れたが、当時はまだ、不遇の時代である。でも、この車体デザイン、自分は好きだった。
この写真の背後に写るガソリンスタンドは、いまも同じブランドのものがあって。それから、鶯谷トンネルの表記がある道路案内標識、金園町9丁目電停付近だと推定される。
当時、岐阜に撮りに行くと必ず立ち寄ったのは競輪場前電停。現在の、東興町付近、外国車の販売店がある付近である。

【1993年4月2日】 名鉄田神線・競輪場前電停(当時)
田神線が美濃町線から南向きに分岐する電停である。タブレット閉塞だった美濃町線、ヘルメット姿の係員が詰所で勤務しており。電車が到着するとタブレット交換が行われていた。
そのシーンを撮ると、バックにはチラッと岐阜城が写り込むのである。電線をかわしながら撮るのは意外と難しく、なかなか思い通りの画を残せなかったが、何度も撮りに通った。
…… ……
夕方、最後に楽しみにしていたのが...
再び市内線に戻って、新岐阜駅前でのカットである。まだ新岐阜百貨店が健在だった当時。
ここで待っていたのは、夕方の1往復にだけ限定運用されていた大正生まれの古豪モ510形である。

【1993年4月2日】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停(当時)
黒野から上がってきた急行電車、その到着シーンを撮って、この日の撮影を終えたのだった。丸看板の「急」も懐かしい。
ちなみに、この電車の行き先、岐阜駅前とJR線岐阜駅まで行くことになっているが、新岐阜で折り返してしまうのが当たり前だった。
(その旨は電停などにも明記されており。当時のJR岐阜駅前は町外れ感が強かった)
そのシーンを眺めたら、そのJR線の岐阜駅へ。そう、“青春18きっぷ”での旅、夕方の満員電車、静岡県内は113系の狭いボックスシートで。深夜に東京に戻ったのだった。
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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【2010年6月25日10時44分】 岐阜県美濃市広岡町・旧名鉄美濃駅
古い城下町の狭い街路はクルマ社会で電車の存続を許さず。残念ながら2005年春に、岐阜市内線をはじめとした一連の「岐阜600V線」は全廃となる。
93年に高校生になった<変態ガキ鉄>、当時、まだ多く残っていた夜行列車を乗り継いで、全国20数都市に走っていた路面電車を全て撮る...という、考えれば無茶苦茶なことだったが、1年がかりで“制覇”した。量販店で買ったネガカラーで撮った酷い、ホントに酷い写真だが、いまとなっては貴重な記録となって。
残念ながら、撮り方もメチャクチャ、さらに、ネガの保管状態が酷く、変色が激しいが16年前に消えた、岐阜の路面電車の姿をご紹介したい。
幸い、簡単な記録が残っており、撮影日は、すべて1993年4月2日ということは確定できた。…… ……
1993年4月2日(金)晴れ
いまから、約10,300日前。定期検診で“やせすぎ”と指摘される高校生だった当時の<変態鉄>。
“大垣夜行”で豊橋へ豊鉄東田本線を撮ってから、新快速電車で岐阜に移動して...

【1993年4月2日】 名鉄岐阜市内線・西野町-早田(当時)
忠節橋を渡る電車の姿というのは、<変態鉄>にとって強く印象に残っているシーン。
当時は毎時2本程度、揖斐線直通急行が2両編成、他に10分くらいの間隔で普通の路面電車タイプの電車で新岐阜駅前-忠節の市内線区間の電車。だから、電車は意外と頻繁にやってきたし、モ570形などの市内線専用車を日中でも当たり前に見ることができた。
この写真に写る真紅の電車は、小ぶりな車体のモ550形。当時、名鉄と資本関係にあった北陸鉄道金沢市内線、その廃線に伴い岐阜に転入してきた車両...と知ったのは、もう少し、後のことだった。
丸っこい車体をもつ電車が多い印象の名鉄の電車の中で、ちょっと「印象の違う電車」という感じ。それと車体前後が絞り込まれた車体形状に、ちょっと“名鉄らしくない”と感じていた高校生当時の<変態鉄>だった。
この写真、忠節橋の北詰、当時の早田電停近くの歩道橋から南東向きにカメラを構えたもの。長良川の向こう岸が岐阜の中心街。目を凝らせば高島屋の看板が確認できる。

【1993年4月2日】 名鉄岐阜市内線・忠節-早田(当時)
そのモ550形の姿を記録したのは、忠節橋からもう少し北側に歩いたところ。忠節橋通りを北上してきた電車は、針路を西に変え専用軌道に入る。そこの交差点である。
「軌道敷内自動車通行可」の上に、電停にも安全島の設置が最後まで認められず、いわゆる“ノーガード電停”ばかり、安全性に問題があるのも岐阜の電車が消える原因の1つになった。そんな中、クルマに邪魔されずに車両写真を撮れる貴重な交差点がココだった。
同じポジションで振り返ると...

【1993年4月2日】 名鉄岐阜市内線・忠節-早田(当時)
モ770形も真紅の塗装で活躍していた。
この忠節駅周辺、<鉄>としてわかりやすく言えば、いまの福井鉄道福武線の赤十字前駅、あんな感じである。
90年代までの忠節駅、駅員さんも居て窓口で乗車券を買うと硬券だった。当時の硬券乗車券も実家の部屋の中を漁れば残っている筈だが...。
駅には揖斐線ローカルの発着ホーム、市内線の折返し用ホームと直通電車のホームがあったような記憶。そして、駅舎は名鉄系のスーパーが併設されており。
もちろん既に線路も撤去されており、あのスーパーも含めて忠節駅周囲も、あまり面影は残っていなかったような気がする。
ちなみに、モ770形の直通急行、正面の方向幕が「急行 岐阜駅前」であることにも注目。
当時、揖斐線直通急行と美濃町線は基本的に車掌さんが乗務して、市内線でも車内できっぷを買う方式だったと記憶している。
ちなみに、急行電車は市内線区間に入っても急行運転、確か、忠節から西野町、千手堂、徹明町、新岐阜駅前と1つおきに停車していた記憶。

【1993年4月2日】 名鉄岐阜市内線・早田-忠節(当時)
そして、全廃の日まで活躍したのが名鉄生え抜きのモ570形。車内灯は最後の最後まで白熱灯だった。
忠節で撮った後は、美濃町線に“転戦”したはず。

【1993年4月2日】 名鉄美濃町線・撮影地不詳
だんだん西に傾いていく陽射し、確か徹明町から梅林を経て競輪場前まで歩きながら。
当時は、新岐阜からの田神線経由が15分間隔、そして徹明町からの電車は30分間隔、続行運転になるのは変わらなかったが、折返し駅が日野橋だったのが末期との違い。
<変態ガキ鉄>にとっては30分という待ち時間は長すぎた。
途中、やってきた徹明町ゆきはモ600形。この電車も当時は単行でも車掌さんが乗っており。この電車、夏になると兎に角、暑かった。当時は冷房車が皆無だった美濃町線である。
この写真、背後に岐阜銀行の看板が写っている。それをヒントに地図で探したのだが、撮影場所を特定できなかった。

【1993年4月2日】 名鉄美濃町線・金園町9丁目電停付近(当時)(?)
当時の美濃町線の徹明町-日野橋系統、モ600形とともに活躍していたのが札幌からやってきたモ870形。好きな電車だったが、札幌らしい窓の大きいデザインは、盆地性気候で夏の酷暑・岐阜の街には不向きだった。
それに、この電車は当時600 V専用車で。末期には複電圧改造されて新岐阜にも乗り入れたが、当時はまだ、不遇の時代である。でも、この車体デザイン、自分は好きだった。
この写真の背後に写るガソリンスタンドは、いまも同じブランドのものがあって。それから、鶯谷トンネルの表記がある道路案内標識、金園町9丁目電停付近だと推定される。
当時、岐阜に撮りに行くと必ず立ち寄ったのは競輪場前電停。現在の、東興町付近、外国車の販売店がある付近である。

【1993年4月2日】 名鉄田神線・競輪場前電停(当時)
田神線が美濃町線から南向きに分岐する電停である。タブレット閉塞だった美濃町線、ヘルメット姿の係員が詰所で勤務しており。電車が到着するとタブレット交換が行われていた。
そのシーンを撮ると、バックにはチラッと岐阜城が写り込むのである。電線をかわしながら撮るのは意外と難しく、なかなか思い通りの画を残せなかったが、何度も撮りに通った。
…… ……
夕方、最後に楽しみにしていたのが...
再び市内線に戻って、新岐阜駅前でのカットである。まだ新岐阜百貨店が健在だった当時。
ここで待っていたのは、夕方の1往復にだけ限定運用されていた大正生まれの古豪モ510形である。

【1993年4月2日】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停(当時)
黒野から上がってきた急行電車、その到着シーンを撮って、この日の撮影を終えたのだった。丸看板の「急」も懐かしい。
ちなみに、この電車の行き先、岐阜駅前とJR線岐阜駅まで行くことになっているが、新岐阜で折り返してしまうのが当たり前だった。
(その旨は電停などにも明記されており。当時のJR岐阜駅前は町外れ感が強かった)
そのシーンを眺めたら、そのJR線の岐阜駅へ。そう、“青春18きっぷ”での旅、夕方の満員電車、静岡県内は113系の狭いボックスシートで。深夜に東京に戻ったのだった。
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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この記事へのコメント
岐阜銀行は他の銀行と合併して
写真にある店舗はなくなりました。
同じく写っているスーパーもなくなり
今はワークマンになってます。
はじめまして。コメントありがとうございます。
金園町9丁目付近と言うことで、ありがとうございます。
岐阜の街も、なかなか訪れる機会がなく、数年前に訪れたときJR駅前の変貌ぶりに驚かされました。また、近々行ってみたいと思っています。
コメントありがとうございます。
まさにおっしゃる通りです。特に土佐に行ったモ590形には1日も長く活躍してほしいと思っています。